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この画面の上を歩いている人の画像を指で触れる作品は、今年のメディア芸術祭の作品ですね?
そうです。画面を指でなぞると、ビジュアル的には人が倒れるのですが、その際に指の爪側に軽い振動を与える装置をつけておくんです。そうすると、(画面の人と指が)ぶつかったときに、なぜか指の腹側に何かがぶつかったような感覚があります。人間の錯覚を使って、画面の中の人をなぎ倒していくような触覚を作り出しています。
渡邊さんは、東京大学の情報理工学系の博士課程を修了されているんですね。
はい。所属した研究室がバーチャルリアリティの研究をしていました。その研究には、ものを作る知識と人間を知る知識の両方が必要になります。研究室には、モノ作りの好きな人もいますが、僕はどちらかというと人間の知覚・感覚に興味がありました。博士課程の途中で、当時の指導教官がNTTコミュニケーション科学基礎研究所に移られて、僕も研究所に顔を出すようになり、そこで、脳科学など、よりサイエンスに近いこともやるようになりました。
サイエンスをやりつつも、その知識をインタフェースにどう活かすかということにも興味がありました。インタフェースを作るということは、機能として新しい何かを可能にすることで、そのときに人間の感覚の知識が使えるかなということを思っていましたし、それをもう少し、体験として、個人個人にとって新しい何かをもたらすようなものができないかなと思い、メディア芸術祭などにも出展するようになりました。
ただ、そういうことをしながらも、立場として、自分は研究者であるというのが基本スタンスです。自分の考えでは、芸術家の方と何が違うかというと、芸術家は音楽なり絵なり、その作品自体に感動してもらうことが重要になることが多いと思うのですが、僕の場合は、体験している人が体験している自分に驚くとか、「こんな感覚でモノが見られるんだ、聴こえるんだ」とか、自分自身の新しい枠組みを発見する仕掛けを作るというのが目的で、どちらかというとワークショップと呼ばれるものに近い展示ですね。それが芸術という文脈で評価されることもありますし、それは全然芸術じゃないよとおっしゃる方も、もちろんいます。
でも、今メディア芸術と呼ばれている世界というのは、そこが非常にファジーになってきていますよね。むしろ研究畑の方が活発に展示、作品活動をされている印象がありますが。
単純な理由では、お金の問題、技術の問題があると思います。技術的に工学部の人間が1日でできてしまうものが、美大の人には1カ月かかってもできないということもあるし、もちろんモノ造りにはお金もかかりますから。
一方で、今、メディア芸術と呼ばれている分野の問題点、やりづらい点というのは、文脈がないとでもいうのでしょうか。つまり、欧米の芸術では、こういう歴史でこういう作品があったから、今自分はこういう価値観を提示しますという流れがあるように思います。でも日本のメディア芸術の場合、新しい分野であるということもありますが、そういう文脈や歴史の要素が弱いから、美術出身の人にはやりづらいのかもしれません。もう一つ、メディア芸術は何より体験が重要で、体験することは、技術のデモと親和性があると思います。ただ、そこに芸術性があるか否かをエンジニアが判断できないまま、メディア「芸術」の分野に入ってきているようなところがあって、そこが少し難しいところだとも思うんですね。何か新しい機能ができて、今まで100だったものが120になったという場合の機能のデモとしてはいいと思うのですが、それが芸術として成り立つかどうかは、また別の話だと思います。
文脈のなかで、どうやって新しい価値観、意味を提示するということを、芸術をやっている方は考えるのでしょうが、芸術家側からみれば、(メディア芸術という分野では)自分たちの技術や資金が十分でないところに、技術畑の人がどっと入ってきた。だから、こういう状態になっているんじゃないかなぁと。
特にここ数年でしょうか?
そうですね。工学の分野で大きな予算がついたり、国としてメディア技術に取り組みましょう、という動きになって、物量は増えていますし、裾野は広がっていると思います。ただ、今は技術側の片思い的なところがある気がします。もう少しそのあたりがうまくできないかなと。
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渡邊さんは科学技術振興機構「さきがけ研究員」ですね。この戦略的創造研究推進事業の研究は、比較的自由に研究しているように外からは見えますが、実際には、さきがけ研究員というのは何を求められているとお考えですか?
新しいもの・分野を自分で造って評価されなさい。価値観や評価基準をも自分で作りなさい。ということだろうと受け止めています。
いいと認めさせるにはプレゼンテーションがすごく大事になりますよね。実はメディア芸術の世界と研究の世界とが親和性を持ち始めたのは、そのプレゼンテーション、つまりロジックをビジュアルにするという点だと思います。渡邊さんは、その辺りに関して、工学系の人たちが自分たちの研究をプレゼンテーションするのにもっと一般に分かりやすくとか……気を使うようになってきたと思いますか?
自分もまだ、長くやってきたわけではないですが、工学系の研究者も、プレゼンテーションに気を使うようになったと思います。5年、10年前だと、技術的に何か進歩したとして、それだけを見せても普通の人にはわからない。それが、今は、どんな機能をもってどんなメリットがあるか、多くの人に説明ができるようになってきたと思います。
ただ、プレゼンテーションがうまくなったとしても、やはり、今のメディア芸術の世界は、少し歪んでいるのは間違いないと思うのです。
工学者の作ったものであっても、芸術側からみて「あれはスゴイね」と認めてもらえるような、芸術側の文脈もわかることが重要ではないでしょうか。もちろん全員がそうなる必要はないのですが、それを喋る人、造る人、アドバイスする人がやっぱり必要じゃないかなと思っていますね。
渡邊さんはそこでそういった通訳の役割を担おうというお気持ちはあるんですか?
そうですね。たしかに、周りを見渡してみると、芸術と技術、両方の言葉を喋る研究者はあまりいらっしゃらないと思います。僕はさきがけ研究の人たちのなかでも、ちょうど真ん中くらいにいる感じだから、何らかの考え方、ものの見方を提示することができたらと思っています。
研究者の肩書きとメディアアーティストの肩書きを両方使い分けているのは、そういう意味を含めてなのでしょうか?
いや、実は自分自身ではメディアアーティストという肩書きを名乗ったことは一度もありません。もちろん、芸術祭にも出展しているので、そこではアーティストということにもなりますけれど。実は先日の受賞者インタビューで「いや、これはアートではなくて……」なんて言ってしまって。それはアーティストの方にとても失礼なことではあるのですが、ただ、何を意図して、このような活動をやっているかということは伝えたいなと思っています。工学側の人から見ると「渡邊君は、アートもやるんだね」とも言われるのですが、僕が「そんなつもりはない」ということをハッキリ言うことで、「芸術とは何」で「工学とは何」でという線引きをちゃんと考える、自分の視点をちゃんと持つことが重要だということを、両方に対してメッセージを提示することができればと思っています。
それは重要なメッセージですよね。研究とアートの境界線や、ファジーな関係を問題意識を持ってお話しになったのは渡邊さんが始めてです。感性のアンテナがアートとサイエンスの両方にあるからこそ、問題点を感じるんでしょうね。両方の言語が分かるだけでも大変なことですよ。
僕は、これまで芸術の教育を受けたことがないので、今でもすごく大変です。2002年にパフォーマンス・アートのグループ(cell/66b)と一緒にヨーロッパを回るというのをやりました。僕自身は映像や音というコンテンツを作るわけではなく、それをどう出していって、どうセンサーと組み合わせて面白い効果を作っていくとか……映像効果とか演出効果を作っていく過程に携わりました。そのときが、作る側としてアートにまともに関わる初めての経験でした。といっても、いきなりそんなに上手くいくわけもなく(笑)。他の人たちは、ずっとアート一筋の踊り手だったり、映像作家だったり、音楽家だったりするので、まず言葉が分からない。例えば「空間」という言葉一つとっても、僕にとっての空間というのはxyzがあって……というものですが、彼らは「人がいるだけで空間ってできるよね」というような会話を普通にしていて、「え? 全然分からないんですけど」なんて。
アート、とくにパフォーマンス・アートの世界は特に入り込みにくい世界だと思いますが、どういういきさつで、一緒に活動するようになったのですか?
もともと彼らは、身体と映像と知覚の関係をとても面白く扱っていたグループで、出す映像はフラッシュとか四角とか丸とかシンプルなものにも関わらず、むしろ見る側に大きな驚きを与える、そういうものをやっていて、それがとても面白いなと。それで、たまたま大道具の手伝いをやっていたときに「僕、バーチャルリアリティやってるんです」って僕のほうからアプローチしたんです。そしたら、彼らも研究側に興味があって、じゃ研究室行かせてください、なんていうことから始まりました。運良く彼らと出会えたことで、今の自分があるといえます。
それをきっかけにして、アートの世界にも?
普段は、基本的には、脳や知覚の科学をやりながら、新しいインタフェース技術の開発をしています。インタフェースというのは、何かの効率がよくなるためのものですが、逆に個々の人が、そこでの体験をどう意味づけるか、新しい意味をどうつくるかという面でも、人間の知覚の知識が使えるのではと思っています。
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知覚の研究についてご説明いただきたいんですが。
一般に錯覚と呼ばれる現象が起きるときのメカニズムについて研究しています。例えば、人は一秒に2、3回、目をあちこちに動かしていて、そうすると、ビデオを速く動かしたときと同じように、手ぶれのような状態が起こるはずですが、私たちは普段そんなことには気づかずにいます。つまり、私たちは、脳の中で、ぼけた画像を取り除く何らかの処理をして、世の中を見ていることになります。このような、人間が持っている知覚のルールがどのように実現されているのかを調べる研究をしています。
人間の五感があって、それを感じる場所をデバイスとすると、そこからくる情報を処理するのが脳で、我々が意味として理解しているものは脳が処理したものだということでしょうか?
環境から得た情報に対して脳が色々加工して、必要なものだけが目の前の意識として現れているということになります。そういうことって、普段あまり気がつかないことですが、あえてその気づかない状態を利用することが、新しい装置や体験のアイディアに繋がるかなと。
僕は芸術とワークショップの間にあるものが、メディア芸術だという見方で活動しています。例えば、料理を例にすると、誰にでも手に入る素材で、誰にも作れない料理を作るのが芸術的料理だとするならば、一方、ワークショップは、誰でもできる方法論や道具を使って、自分自身に驚くことが重要になると思います。あるレシピをもとに料理を作って「あ、自分はこんな美味しい料理が作れるんだ」と驚く体験に近い。じゃ、メディア芸術は何かというと、ちょうどその間にあって、料理を作る道具も普段と違うもので、かつ自分自身に驚くことじゃないかと。
技術や知覚というのは、人と環境のルール自体を変更できるという特性があります。つまり、もし人間の知覚に対する知識があって、普段見えてないところで何が起こっているかということを逆に使えば、新しい何かが見えてくるような体験を作り出すことができます。身体のルール、物理のルールを変えることが、ある種、メディア芸術の原理であり、その上で自分自身に関して、何か新しいものを発見するような、新しい装置、体験設計ができないかなというのが、僕のメディア芸術に対する関わり方なんです。

こちらの例ですが、これは自分自身に対する感覚を揺るがす装置です。耳の後ろに電極をつけて微弱な電流を流すとフラフラっとするんです。それで、モニターをつけた小さな人形を用意して、水の入ったボウルに浮かべ、それと前庭感覚を刺激するインタフェースを結びつける。人形の揺れを検知して、その情報がボウルを持っている人の電極に送られ、この人が揺れるわけです。この裏にある考えは、「自分の感覚は、どこまで自分で操作できているのか」ということ。例えば、普段、たくさんの情報が送られてきて何かを買ったとき、それは買ったのか買わされたのか。100%自分の意思だけで何かすることは不可能ですが、それを(自分で)しているつもりになっているとしたらどうなんだろうと。この装置を使った場合、誰か他人が操作すると100%動かされているわけですが、自分で持って歩く場合、自分で持っていながら水の上に浮いているので、正確な操作ができない。持っているつもりだけあるし、ある程度は自分のコントロール下にあるけれど、操作しきれないものも、いろいろあるということが分かると思います。
外的影響がビジュアルにわかりますよね。
そうですね。こういう風に体験化することで、色々と感じてもらえるといいなと思っています。そんなに深いことでなくても、自分の感覚自体がこんな簡単に揺らされるんだ、というだけでも不思議な体験ですし、例えば、他人と人形を交換すると、自分の感覚自体を全然制御できないわけで、他人が揺らすと自分が揺れて、それで自分の持っている人形が揺れて、相手が揺れる、それでまた……という具合に(笑)。
これは非常に哲学的ですね。不安定ということを認知するわけで、外的要因で知覚が左右されていく……社会の関係というのもここから捉えられるし、とても象徴的に哲学的だと思います。
確かに人間には、ある共通の一つのルールのもとに知覚が生じています。ただそれには、個々の揺らぎもあるはずなんです。しかし、それをサイエンスで見ようとするとデータを平均したりして、統計的操作をした瞬間にそれはすべて消えるんです。もちろん根本的な共通ルールを見るには、アベレージを見る必要があるのですが、個々の揺らぎに、個性があって、それが人ごとに意味があるのなら、それを見る別の方法があるんじゃないでしょうか。個々の感覚は伝えられないし、言語化も難しいので、それを自分自身が体験できるような枠組み作りをして、自身で観察するということができればいいなと思いました。
僕の個々の研究自体は「新しいディスプレイを作りました」とか「電流を流したら揺れました」というもので、それぞれとしては一般的な研究だと思います。ただ、それら一般的な研究を、どう位置づけ、組み合わせ、どんな意味を見出して伝えるか、というのは、自分のなかで、唯一、芸術のスタンスを持った活動といえるかな……と実は思っています。